コナン・ドイルの偉大さは、シャーロック・ホームズという類まれなキャラクターを作り上げたことではなく、そのホームズの活躍や葛藤をワトソン博士という自我を持った存在が語る事件簿のスタイルへと構築し直したところにある。
というような記述を読んだことがあります。たしかに。
シャーロック・ホームズの一人称だったら、相当につまらなかっただろうと思います。翻訳のとき「僕」なのか「私」なのか興味あるけど、きっと「吾輩」だろうな。
プレゼンにも、そういうひと捻りがあるといいなと思います。
写真を撮ったのと別の人格で語ると面白い、というわけでなく、見せ方に工夫があるといいんじゃないかと。
そういうのエルスケンあたり上手そう。
欧米の写真家は、一般的にストーリー仕立てで写真を見せていくスタイルを好むようです。カメラとこんなふうに出会って、こういう経験があり、こういうところが気に入っていて、これからはこう使っていきたい、と。
改行とパラグラフがしっかりしているという感じ。文化としてそういう背景があるからでしょう。
一昨年だったかフジフイルムのステージに出たTomasz Lazarが、エルンスト・ハースの引用から始めてマルセル・プルーストの引用で締めくくっていて、かっこよかったです。場にフィットしてない感じは否めなかったけど。
ぼくはターゲットストーリーみたいなのを考えるのが好きで、ペンタックスQ-S1のときに男女ふたつのキャラクターを想像しました。
こういう遊び心、もっと広まるといいな。
インパクトがあるのは数字だけれど、長く心に残っていくのは物語だと思うから。でも「カメラのブツ撮りにストーリーをもたせよう」というのも普及させられないので、力不足を痛感しています。